強烈なオヤジ 「プレジデントファミリー」

2015年3月発刊の プレジデントファミリーで 強烈なオヤジが 教育について語りました

 

以下は 同文ではありませんが 概要を掲載しますのでご一読ください

 息子は3人とも高校へ行かずに京都大学へと進学しました。長男は1年間だけ高校に行きましたが、次男、三男は高校に通わず大検(現高校卒業程度認定試験)を取得し大学に進学しました。

 きっかけは長男が高校に通い始めて数ヶ月後に「オヤジ、高校辞めたいんだけど、、、」といってきたからです。私はただ「いいよ」と答えました。その後、二人の弟も長男の影響もあって高校へは行きませんでした。

 当時長男が通っていた高校は地元ではトップの進学校でひたすら問題演習を繰り返しやらされていたそうです。断片的な知識の吸収ではそれらの知識のつながりが見えません。例えば学校では数学なら数学。物理な物理という枠組みの中で授業をします。日本史、世界史も分けて教えられています。しかし数理科学はその発展の中で密接に関係性があり、日本史、世界史、地理もその歴史的な流れの中に面白さがあります。

 そのような数理科学の発見史や歴史のダイナミズムを教えることなしに、先生の授業を聞き、問題演習ばかりを繰り返すだけの勉強が面白くないのは当たり前です。うちの息子たちだけでなく、学習意欲はあるのに学校の授業に意義を見出せない子どもはたくさんいます。私は1年ほど前に寺子屋塾「プラトン学園」を立ち上げ、そこで様々な生徒をみています。もちろん学校に通っている生徒もいますが、うちの息子と同じく高校を中退して難関大学を目指している生徒も数人います。彼らの多くは学校的なものさしで言えば「落ちこぼれ」でしたが、様々な映画やテレビ、本との出会い、旅行やキャンプなどを体験するうちに見る見るやる気になり今は眼の色を変えて学んでいます。

 もちろん、たんに学校が悪いというわけではありません。学校制度というのは偉大な仕組みで、全世界に学校があり、そこで多くの生徒が学んでいます。ただ、日本の学校では生徒に対する教員の数が少なすぎます。日本の学校では一クラスの人数が30-40人もいます。一般論的には一クラスの人数は5-15人が適正だと言われています。

 教員に対して生徒数が多すぎると、生徒と教員の間で活発な議論や質疑応答をすることが難しくなります。そうすると、一方通行の授業、テストにおける成績評価が中心にならざるを得ないのです。

 わが家では子どもが小さい頃から、子どもの探究心を養い、自ら学習出来るように様々な教育をしてきました。まずは子どもが興味を持ちそうなコンテンツを与えるのですが、初めから難しいものを与えてはいけません。例えば歴史であれば、いきなり大河ドラマとか司馬遼太郎をぶつけるのではなく、ゲームや漫画、アニメから入るのです。具体的には、まず「信長の野望」といったゲームを一緒にやったり、歴史漫画を読ませたりします。その後、こどもが興味を持ってきたら映画や大河ドラマを見せ、司馬遼太郎の小説なんかを読ませたりします。

 歴史以外にも漫画や本、テレビ、映画など様々な分野でいろいろなコンテンツを提供していました。ビデオデッキを4台くらいフル稼働させてNHKスペシャルやクローズアップ現代、Eテレの教育に使えそうな番組を録画していました。

 もし子どもが興味を持ち出せばその気持ちをさめさせないことが大事です。こどもが「今日は火の鳥全巻読む!」「信長の野望がいいとこだから!」といえば、自由に学校を休ませて子どもの興味、情熱を優先させました。その他、様々な体験をさせるため、家族で平日からキャンプに行ったり、旅行に行ったりしていました。旅行先も国内から海外まで様々な場所へ行きました。ちょうど長男が高校を辞めた高2の夏には家族で2ヶ月ほど海外へ旅行へ行きました。海外では美術館・博物館に加え、ハーバード大学、MITに子どもを連れて行き、本場・本物に触れさせるようにしました。

 また、ただ様々なコンテンツを紹介するだけではなく、時には徹底した言語能力の訓練もしていました。われわれは言語なしに思考はできません。様々な情報を吸収するためには言語能力の向上が必須です。何をやったかというと単純です。それは音読・暗唱・書き写しです。まず言語能力を鍛えるにはとにかく音読・暗唱です。様々な文章を暗唱させましたが、国語であれば中島敦の「名人伝」や「弟子」、夏目漱石の「坊っちゃん」などは徹底的にやりました。三男なんかは一時期「名人伝」を全て暗唱していました。子どもが中学生くらいになると、英語の音読暗唱もさせました。簡単な英文から難しい英文まで、とにかく有名小説や評論などを音読暗唱させていました。書き写しというのはただ文章を書き写すというものです。例えば、明治時代の知識人には漢詩と 外国語と日本語の達人が多数いました。当時はコピー機などないのでみんな本を借りたらそれを書き写していました。もちろん当時の知識人たちは小さい頃から 音読・暗誦を徹底的に指導されていました。彼らは音読・暗唱・書き写しを通じて言語能力を鍛えていったのです。

 しかし、音読・暗唱はもちろんですが、いくら漫画といっても、いつも子どもが素直に読むわけではありません。やはりバラエティ番組やテレビゲームなどに流れてしまいます。そんなときは子どもはお金で釣るわけです。例えば本であれ漫画であれ1ページ1円。たまに必修図書を出し、それは1ページ5円とかやるわけです。また、本当に本を読んでるかチェックするために、必ず読んだ内容を報告させていました。このようにアウトプットさせることは非常に重要です。人にものを伝えるためにはインプットした知識に関連性を見つけ出しそれをストーリー化しなければなりません。アウトプットさせることで知識が自分の中で意味を持ち、蓄積されていくのです。

 よく「こどもをお金でつるのはよくない」なんてことを言われますが、それは違います。最初はお金のために読んでいた本も子どもが興味を持ち出すと驚異的なほど学び始めます。また私も含め3兄弟が自分の学んだ情報を共有することで学習意欲がさらにわきます。

 私はいま「プラトン学園」を立ち上げ、経営しています。そこではもちろん音読・暗唱・書き写しを徹底的にやらせていますが、その上でこの感動の共有は非常に大事だと感じています。はじめは私が「この映画面白いから観ろ」「この小説は面白い」「この番組観ろ」というのですが、そのうち生徒同士が「このあいだのNHKスペシャルめちゃくちゃ面白かった!みた?」「え、ほんと?まだ観てないからみるわ」、というようなやり取りをしています。生徒はそのような感動や情熱を共有し、お互いに刺激しあいながら必死に学んでいます。「知情意」といいますが、人は知識だけでものを考えたり行動したりするわけではありません。知識以外にも情と意が伴わないといけません。感動や発見のない学びはいずれ行き詰ります。

 よく「そんな教育どの家庭でもできるものではない」と言われます。たしかに同じようにはできません。しかしできることはたくさんあります。まずは両親が自分の好きなことを子どもに教えてあげることから始めればいいのです。


大事なのことは、いきなり〝司馬遼太郎の小説〟のような難しいものを与えないこと。入門でつまずくと子どもはその分野を嫌いになります。最初は大人が〝入門として何が適切か〟を吟味してあげることが重要です。


 次に子どもと一緒に学ぶことです。他人と感動や体験共有することは、誰にとっても嬉しい経験となります。子どもと一緒に感動や体験を共有することは子どもの学習意欲に大いにプラスになります。